最終更新: soba_mentuyu_ 2020年09月04日(金) 01:14:05履歴
首都 | オタワ |
国家元首 | ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング |
政体 | 君主制民主主義 |
人口 | 3759万人 |
国歌 | O Canada |
通貨 | カナダドル |
公用語 | 英語 |
- 先住民の時代
- ヴァイキングの渡来
- カナダ(2) ヨーロッパ人の入植
1497年、イギリス(ヘンリ7世)の派遣したイタリア人のカボットがアジアに到達する西北航路を発見を目ざしたが、その途中に現在のノヴァ=スコシア、ニューファンドランドに到達し、ヨーロッパ人として最初に北米大陸に上陸した。この海域は豊かなタラ漁場だったので、イギリスやスペイン、ポルトガル、フランスなどの漁師が殺到するようになった。しかしこの段階ではイギリスはこの地に植民地を領有しようとはしなかった。
フランスの進出
1534年、フランスのフランソワ1世がジャック=カルティエを北米に派遣、セントローレンス川流域を探検させた。カルティエはこの地をカナダと名付け、フランスは1534年にはこの地をフランス領とすると宣言し、1603年アンリ4世の時に植民地を成立させた。ついで1608年、フランス人サミュエル=ド=シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベックを創設、ヌーヴェル=フランスとして植民地経営を開始した。さらに、ルイ13世の宰相リシュリューは1627年、ヌーベル=フランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねた。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易(ビーバーの毛皮が、ヨーロッパで帽子の材料とされて需要が高まっていた)を行った。フランスはさらに1642年にはモントリオールにも拠点を設ける。ルイ14世のもとでコルベールはヌーベル=フランス会社を廃止、植民地を王領(直轄領)とした。フランスは五大湖地方からミシシッピ川流域に南下して植民地を拡大、1682年にルイジアナとして領有した。
- イギリスの進出
- カナダ(3) イギリスとフランスの抗争
18世紀のイギリスとフランスの植民地抗争は北米大陸でも激しくなり、スペイン継承戦争(北米ではアン女王戦争)後の1713年のユトレヒト条約ではニューフアンドランド、アカディア、ハドソン湾地方をイギリスに割譲し、フランス領はケベックを中心としたセントローレンス川流域から、五大湖地方、ミシシッピ流域のルイジアナに及ぶ地域となった。
さらに七年戦争(1756〜63年)と並行してフレンチ=インディアン戦争が起き、優位に戦ったイギリス軍がフランスの拠点ケベックを占領、1763年のパリ条約でフランスはカナダ側の大部分をを放棄することとなった。これによってイギリス領カナダ植民地が成立することとなった。
- イギリス領カナダ植民地の成立
- カナダ (4)カナダ連邦の成立
- カナダの自治の開始
自治領の意味 イギリスの自治領とは、国家元首としてイギリス国王を戴き、外交・国防・通貨などは本国の統治を受けるが、その他については独自の議会と政府を有して自治を行うことができる国家形態である。イギリスは多くの植民地を所有していたが、白人が優位に立っているカナダに対してこのような自治権を最初に与えた。ついで1901年にオーストラリア連邦、1907年にニュージーランド、1910年に南アフリカ連邦を自治領とした。しかし直轄領としていたインド帝国では、自治の要求は強かったが認めなかった。
- イギリス連邦の成立とカナダ
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